ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読んで 【レポート・感想】

『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(マックス・ヴェーバー著、大塚久雄訳、岩波文庫、1989年)を読みました。原著は、1904年にヴェーバーが発表した論文でして、日本では『プロ倫』と呼ばれることもあります。重要箇所を引用しつつ、備忘録としてまとめてみました。

① 問題提起 (なぜ「清貧」をよしとした宗教が資本主義を助長したか?)

簡単にいってしまうと本書は、キリスト教の一派であるプロテスタンティズムが、なぜ資本主義の興隆に加担することになったかを解き明かそうとするものです。もともとキリスト教というのは、「清貧」という言葉に表されるように金儲けを否定的に捉えてきました。「ヴェニスの商人」などでも、クリスチャン目線で、金の亡者であるユダヤ人高利貸しが憎々しげに描かれています。金儲けを否定的に捉えていたはずのキリスト教が、意図的ではないにしてもどうして資本主義を助長することになったのか。それが本書の主題です。

まずは本書を読む上での前提知識として、宗教改革とその周辺の時代背景について簡単に述べておきます。宗教改革というのは、大雑把に言えばキリスト教の縛りを緩いものにしていこうという動きです。16世紀前半のルネサンスにて、キリスト教の支配から人々を解放しようという動きがあったわけですが、宗教改革はこのルネサンスと相まって起こりました。そしてご存知のとおり、その宗教改革の口火を切ったのがマルティン・ルター(1483-1546)です。

彼は、当時のローマ教皇庁による贖宥状(免罪符)の発売に猛反発します。当時のローマ教皇庁は、金さえ払えば誰でも救われるとする考え方を流布して資金を集め、教会をきらびやかに装飾することに躍起になっていたのですが、ルターは「信仰を貫くものこそが救いの対象となるのだ」という立場をとり、教皇庁の考え方を否定します。彼が贖宥状による魂の救済を批判するためにヴィッテンベルク教会の扉に張り出したのが、「九十五箇条の論題」です(1517年)。これが宗教改革の嚆矢となります。

このルターの流れを汲んで、カルヴァン(1509-1564)が持論を展開することになります。彼が展開した思想をカルヴィニズムといい、特にイギリスで隆盛を極めたカルヴィニズムのことをピューリタニズムと呼びます。このカルヴィニズム(及びピューリタニズム)こそが資本主義を結果的に助長することになるのです。もちろん中世以前から資本主義の萌芽はあったわけですが、このカルヴィニズムの思想を滋養にして近代資本主義はその骨格を確かなものにするのです。ここで強調しておくのですが、もちろんカルヴァンは資本主義を助長しようとして、ルター派の思想に肉付けをしたわけではありません。あくまで結果として資本主義の精神を涵養することになったに過ぎないのです。なぜ「清貧」をよしとしていたキリスト教が、資本主義を助長することになったのでしょう。これからその経緯に立ち入ります。

② カルヴァンによるルター批判 (信仰義認説vs.予定説)

ルター派とカルヴァン派を分かつ思想に「予定説」というものがあります。予定説とは、神の救済を受ける者と滅びに至る者は、はるか昔から予め決まっているとするものです。神の救済を受ける者は常々よい行いをして神の栄光を積み増しますが、滅びに至る者は永遠に神の御加護を受けることがありません。ルターが「悔い改めて信仰を貫けば誰でも救いを得られる」と説いた一方(信仰義認説)、カルヴァンは、「悔い改めて信仰したところで、救われるとは限らない」と説いたわけです。カルヴァンは次のようにルターの信仰義認説を批判します。

人間の功績あるいは罪過がこの運命の決定にあずかると考えるのは、永遠の昔から定まっている神の絶対に自由な決意を人間の干渉によって動かしうると見なすことで、有り得べからざる思想なのだ。(P153)

ここで想像してみてほしいのですが、ルターの信仰義認説に準拠して生活する人と、カルヴァンの予定説に準拠して生活する人とで、その生き方にどのような違いが生じてくるでしょうか。ルターの信仰義認説を拠り所として生きる人には、「たとえ悪い行いをしてしまっても、悔い改めれば救われるのだ」という気の緩みが生じ、よい行いをし続けようという意思はそれだけ薄弱なものになるでしょう。一方カルヴァンの予定説を拠り所とする場合、「はるか昔から救われる人は決まっている」ので、現世でのよい行いは救済の有無に関係ありません。とはいえ人々は、「自分は救われる側の人間だ」という確信を得るため、常日頃から「救われる側の人間」として立ち振る舞わずにはいられません。「救われる側の人間」として、常によい行いをし続けずにはいられなのです。逆説的ではありますが、「はるか昔から救われる人は決まっている」と信じる人のほうが、現世でよい行いをすることになるのです。それも、「よい行いをしなくちゃ」という義務感、焦燥感に駆られてよい行いをするのではなく、「救われる側の人間」として、息をするが如くよい行いをし続けなくてはならないのです(そんな人間のことをヴェーバーは「聖徒」と呼んでいます)。本書には次のように書かれています。

カルヴァン派の信徒は自分で自分の救いを——正確には救いの確信を、と言わねばなるまい——「造り出す」のであり、しかも、それはカトリックのように個々の功績を徐々に積み上げることによってではありえず、どんな時にも選ばれているか、捨てられているか、という二者択一のまえに立つ組織的な自己審査によって造り出すのだ。(P185)

こうして、ルッターが説いたような、悔い改めて信仰により神に依り頼むとき必ず恩恵が与えられる謙虚な罪人の代わりに、あの資本主義の英雄時代の鋼鉄のようなピュウリタン商人のうちに見られる、また個々の事例ならば今日でもなお見られるような、あの自己確信にみちた「聖徒」が錬成されてくることになる。(P178-179)

さて、だとするならば、カルヴァン派が救いの確信を得るために行った「よい行い」とはなんだったのでしょう。実はよい行いの捉え方にも、カルヴァンは大きな変化をもたらしました。キリスト教的な「禁欲」の考え方を捉え直したのです。カルヴァン以前のキリスト教では、禁欲というと「祈りを捧げながら慎ましく生活すること」を言いました。その禁欲が凝縮されているのが修道院です。修道院では、毎日定刻に祈りの時間が数回設けられ、それ以外の時間には写経をしたり、ミサで信者が食べる軽食をつくったりと、慎ましい生活が送られました。私有財産は認められず、外部世界とも厳しく断絶されていたようです。

カルヴァンはこうした従来の禁欲に疑義を呈します。禁欲を強いれば強いるほど、信者は日常生活からかけ離れた生活を送らざるをえなかったからです。カルヴァンはこうした修道院的禁欲を「世俗“外”的禁欲」として批判し、あるべき禁欲を「世俗“内”的禁欲」に求めました。では「世俗内的禁欲」とは具体的に何を指すのでしょうか。ここにきて天職観念が役割を果たします。天職というのは、英語にすると「calling」です。つまり天職とは神に召命された(呼ばれた)職業のことをいうのであり、それにひたむきに従事することが「世俗内的禁欲」とされたのです。

来世を目指しつつ世俗の内部で行われる生活態度の合理化、これこそが禁欲的プロテスタンティズムの天職観念が作り出したものだったのだ。(P287)

この「世俗内的禁欲」を推し進めることで、社会にどんな影響があったのか。次にそれを見ていきましょう。

 

③ 消費の圧殺と営利の解放 (金儲けの正当化)

当初「世俗内的禁欲」は、特に農村地帯の小商品生産者に顕著に見られたようです。たとえば小商品生産者として靴屋さんを想像してみます。靴屋さんにとって真摯に労働に励むというのは、新しい靴をつくったり、壊れかけた靴を修理したりすることでしょう。これらの労働は、靴屋さんにとっては隣人愛とも結びつくものです。世俗内的禁欲を内面化した靴屋さんは、金儲けをしようと思っているわけではなくても、神の栄光と隣人への愛のために、脇目も振らず天職である自分の職業に専念することになります。注目すべきは、この禁欲を突き詰めれば突き詰めるほど、結果として靴屋さんは金を儲けることになるという事実です。

ちなみに、天職への専念が隣人愛にもつながるという考え方は、アダム・スミスの経済理論とも関係があるようです。アダム・スミスといえば、個々人の私利の追求が市場経済を通じて公共の福祉(common best)に貢献しうることを論じた人物です。この理論が、金儲けと隣人愛を結びつける地盤となったことは想像に難くありません。私利の追求が全体の利益につながるのであれば、仕事に励んでお金を稼ぐことが「隣人愛の実践」になりうるからです。また、ベンサム的な功利主義も、金儲けの肯定と無縁ではありません。功利主義のスローガンは「最大多数の最大幸福」ですが、私利の追求によって市場に貢献することは、市場を利用する多数者に幸福を届けることとして解されたからです。

こうして俗世の仕事を全うすることが宗教的に是とされる時代が到来することになります。ルター派では、天職への忠実は神の恩恵に対する感謝の義務だとか、原罪を負う人類に課せられた刑罰として考えられていたに過ぎなかったのに、カルヴァンは天職への忠実それ自体を自己目的として捉え直したのです。仕事に励むこと自体を、神の栄光を積み増す至上命題と考えたわけです。

天職への専心が称揚されたといっても、職業を変更することは禁じられていませんでした。ただし職業を変える場合には、よりいっそう神に喜ばれるような職業を選ばなくてはなりませんでした。そして、その神に喜ばれる度合いを測定するものさしには、ご想像のとおり収益が利用されることになります。収益のより高い仕事に就くことが奨励されたのです。

もしも神があなたがたに、自分の霊魂も他人の霊魂も害うことなく、律法にかなったやり方で、しかも、他の方法によるよりいっそう多くを利得しうるような方法を示し給うたばあい、もしそれを斥けて利得の少ない方法をえらぶとすれば、あなたがたは自分に対する召命(コーリング)の目的の一つに逆らい、神の管理人としてその賜物を受けとり、神の求め給うときに彼のためにそれを用いることを拒む、ということになる。もちろん肉の欲や罪のためではなくて、神のためにあなたがたが労働し、富裕になるというのはよいことなのだ(P310)

貧しいことを願うのは、病気になるのを願うのと同じようなもので、神の栄光を損なうものだと考えられました。とはいえ贅沢が推奨されたわけではなく、浪費は厳に慎まれます。特にピューリタンは、呪術や儀式のような伝統的な行事にも憎悪を向けるようになり、クリスマスの祝祭までをも迫害するに至ったそうです。小説のたぐいも時間の無駄遣いになるから読むべきではないとされるなど、世俗内的禁欲は芸術文化に停滞をもたらしました。イギリスでは16世紀のエリザベス朝以後、戯曲、叙情詩、民謡、音楽的才能が枯渇してしまったとヴェーバーは指摘しています(P333)。芸術や文化などの悦楽に対して支出を行うことは慎むべきこととされたのです。

人間は神の恩恵によって与えられた財貨の管理者にすぎず、聖書の譬話にある僕(しもべ)のように一デナリにいたるまで委託された貨幣の報告をしなければならず、その一部を、神の栄光のためではなく、自分の享楽のために支出するなどといったことは、少なくとも危険なことがらなのだ。目の見える人々には今日でもなお、こうした思想の持ち主が見あたるのではなかろうか。人間は委託された財産に対して義務を負っており、管理する僕(しもべ)、いや、まさしく、「営利機械」として財産に奉仕する者とならねばならぬという思想は、生活の上に冷やかな圧力をもってのしかかっている。(P339)

以上述べてきたことは、次のように総括されているので採録しておきます。

プロテスタンティズムの世俗内的禁欲は、所有物の無頓着な享楽に全力をあげて反対し、消費を、とりわけ奢侈的な消費を圧殺した。その反面、この禁欲は心理的効果として財の獲得を伝統主義的倫理の障害から解き放った。利潤の追求を合法化したばかりでなく、それを(…中略…)まさしく神の意思に添うものと考えて、そうした伝統主義の桎梏を破砕してしまったのだ。(P342)

この消費の圧殺と営利の解放は、人々の手元に財貨を残すことになりましたが、それは手元に置いておくよりは有用に扱ったほうがよいということで、資本に投下されました。ヴェーバーの言葉を使うならば「禁欲的節約強制による資本形成」(P345)が促されることになるのです。こうして資本主義の地盤は固められ、肥大化していくのですが、その先にはなにが待ち受けているのでしょう。

 

④ 私欲追求への堕落と「鉄の檻」の形成

世俗内的禁欲の精神が人々を厳しく規律したことはこれまで見てきたとおりです。しかし、時を経るにつれて当初の精神が形骸化してしまうというのはよくあることです。そう、カルヴィニズム(ピューリタニズム)の生活理想は、富の誘惑に打ち勝つことができませんでした。利他の精神で仕事を全うするという生活理想ははるか後景に退き、人々は金儲けに熱中することになったのです。富の増加が人々の欲望や見栄を喚起し、宗教は形骸化を余儀なくされました。金に目が眩んで宗教が形骸化するというのは、歴史上人類が幾度となく経験してきたことですが(教皇庁による贖宥状の販売なども好例です)、今般もそれを避けることはできなかったのです(カルヴァンも、「人々は貧しいときにのみ神に従順である」と危惧してはいたのですが)。

強力な宗教運動が経済的発展に対してもった意義は、何よりもまず、その禁欲的な教育作用にあったのだが、(…中略…)それが経済への影響力を全面的に現わすにいたったのは、通例は純粋に宗教的な熱狂がすでに頂上をとおりすぎ、神の国を求める激情がしだいに醒めた職業道徳へと解体しはじめ、宗教的根幹が徐々に生命を失って功利的現世主義がこれに代わるようになった(…中略…)ときだった。(P355)

こうして構築された資本主義の社会機構は、私たちの生活に大きな影を落とすことになります。資本主義は手に負えないほど肥大化し、金儲けの営みを続けなければ生きていけない状態に人間を追い込むのです。もともとは清らかな信仰心に基づいて自発的に世俗内的禁欲を実践していたはずの人々が、いつのまにか資本主義社会に禁欲を強いられる状態に陥ってしまうのです。こうなってしまっては信仰心など用をなしません。金儲けの営みは、信仰心の有無にかかわらず、近代資本主義社会に生きる人間にとっての義務となります。この金儲けを義務として是認する精神こそが、「資本主義の精神」なのです。そして、資本主義の精神を深く内面化した私たち現代人は、この非情なまでに強大化した資本主義社会という「鉄の檻」から逃れることはできないのです。

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