なお、本作品は、第一次世界大戦の終盤に出版されました。ファシズム台頭前夜でもあります。そのことを意識して読むと興味深いです。なお、イタリックの箇所は、読みやすくするために挿入した部分です。重要箇所にマーカーを引いていることにもご留意ください。
タイトル | 職業としての政治【Politik als Beruf (Politics As a Vocation)】 |
著者 | マックス・ウェーバー【Max Weber】(1864-1920) |
原作出版年 | 1918年に行われた講演を元に1919年に出版 |
職業としての政治
この講演は、皆さんの要請に応じて行うものであるが、多くの点で皆さんの期待を裏切ることになるだろう。皆さんは当然、私が今日実際に起きている問題について何らかの立場を取ることを期待するだろうが、その代わりに、職業としての政治とは何か、政治が意味しうることは何かという、より一般的な問題を取り上げることとする。
政治とは何か?この概念は極めて広範だ。政治とは、あらゆる種類の独立したリーダーシップから構成される。 政治結社や国家の指導層に対して影響力を持つリーダーシップだ。
しかし、国家とは何だろうか? 社会学的に、国家をその目的の観点から定義することはできない。 結局のところ、近代国家を社会学的に定義することができるのは、あらゆる政治結社に特有の手段、すなわち武力の行使という観点からである。
「すべての国家は軍隊の上に成立する」とトロツキーは言った。 確かにその通りだ。 もし暴力の行使を知る社会制度が存在しなければ、国家という概念はなくなり、ある意味での無政府状態に陥るだろう。 もちろん、軍隊が国家の通常の手段でも唯一の手段でもないことは確かだが、軍隊は国家に特有の手段である。 今日、国家とは、与えられた領土内で合法的な物理的武力の行使の独占を(成功裏に)主張する人間の共同体であると言わざるを得ない。 「領土」は国家の特徴のひとつである。 具体的には、現在、軍隊を行使する権利は、国家が許可する範囲においてのみ、他の機関や個人に帰属する。 国家は暴力を行使する権利の唯一の源泉なのだ。
歴史的に先行する政治制度と同様、国家は人間が人間を支配する関係の基盤であり、合法的な(少なくとも合法的とみなされる)暴力によって支えられている。 国家が存在するためには、被支配者は権力者が主張する権威に従わなければならない。 人はいつ、なぜ従うのか。 この支配は、どのような内的正当性の上に、またどのような外的手段の上に成り立っているのだろうか。
まず原則的に、支配には3つの内的正当性、つまり基本的な正当性がある。
第一に、家父長や家督を継ぐ王子が行使してきた過去の「伝統的・世襲的」支配の権威である。
第二に、カリスマという非凡で個人的な才能、神のお告げに対する絶対的な個人的献身と個人的信頼、英雄主義、あるいはその他の個人的リーダーシップの資質である。これはすなわち「カリスマ的」支配であり、預言者、あるいは政治の分野では、選挙で選ばれた将軍、偉大なデマゴーグ(扇動的政治家)、政党の党首によって行使される。
最後に、合法性による支配がある。合理的に作られたルールに基づく法の正当性と機能的能力を信じることによる支配である。 この場合、法的義務の遂行において服従が求められる。 これは、近代的な国家の下僕が行使する支配である。
すなわち、支配・服従の正当性を問うとき、伝統的、カリスマ的、法的という3つのタイプの説明可能性がある。
これらの正当性の概念とその内的正当性は、支配の構造にとって非常に重要な意味を持つ。 たしかに現実には、上記の3タイプにきれいに当てはまることはほとんどない。 そして、この3つすべてをここで扱うつもりもない。 今日われわれが関心を抱いているのは、第二のタイプである。いわゆるリーダーの純粋に個人的なカリスマに従う人々の献身による支配である。
預言者、戦いの指導者、あるいは偉大なデマゴーグのカリスマに対する献身とは、その指導者が個人的に人間の内なる指導者として認められていることを意味する。 人々は伝統や法令があるから従うのではなく、彼を信じるから従うのである。 もし彼がその場限りの狭量でうぬぼれの強い成り上がり者でないなら、リーダーはその大義のために生きる。従うものが見せる献身は、彼の人格があってこそである。
カリスマ的リーダーシップは、あらゆる場所、あらゆる時代に出現してきた。都市国家の土壌から成長した自由な「デマゴーグ」の形をした政治的リーダーシップは、私たちにとって大きな関心事である。都市国家そのものと同様に、デマゴーグも西洋、特に地中海文化に特有のものだからである。 さらに、議会の「党首」という形の政治的リーダーシップは、立憲国家という土壌で育ってきた。
政治的に支配的な大国は、どのようにして支配を維持しているのだろうか?この問いは、あらゆる種類の支配に関わるものであり、したがって、伝統的なもの、法的なもの、カリスマ的なものなど、あらゆる形態の政治的支配にも関わるものである。
組織化された支配は、継続的な統治を必要とし、人々が正当な権力の担い手であると主張する人々に従うことを要求する。組織的支配はまた、ある場合には肉体的暴力の行使に必要な物質的財貨の支配を必要とする。したがって、組織的支配は、信頼できる行政官と行政による物質的道具・生産手段の支配を必要とする。
第一に、行政官の忠誠心である。行政官は、権力者に対する服従を強いられるのであって、先ほど述べた正当性の概念によってのみ服従を求められるわけではない。服従させるための手段として、物質的報酬と社会的名誉も挙げられる。2つの例を挙げれば、現代の行政官にとっては給与が賃金だし、騎士にとっては名誉が賃金となる。これらを失うことへの恐怖が、行政官と権力者との連帯の最終的かつ決定的な根拠となる。戦争における従者には名誉と戦利品があり、デマゴーグの従者には「戦利品」(つまり、役職の独占による被支配者の搾取)があり、政治的に決定された利益と虚栄の褒章がある。これらの報酬はすべて、カリスマ的指導者が行使する支配からも派生する。
第二に、行政による物質的道具・生産手段の支配である。領土を武力で維持するためには、経済組織と同じように、ある種の物質的道具が必要である。すべての国家は、国民自身が行政財産を所有するという原則に基づいているか、国民が行政財産から切り離されているかによって分類することができる。この区別は、今日、資本主義的企業の賃金労働者が、物質的生産手段から分離されていると言うのと同じ意味で成り立つ。
物質的な管理手段の全部または一部が、従属的な管理スタッフによって自律的に管理されている政治的団体は、「分譲地」で構成された団体と呼ぶことができる。 しかし、初期の政治体制にさかのぼると、いたるところで、領主自身が行政を指揮している姿も見られる。 領主は、奴隷、家政婦、侍従、個人的なお気に入りなど、領主に個人的に従属する者を持つことで、行政を自分の手に委ねようとする。領主は、自分の穀物庫や武器庫から装備や兵糧を調達することで、領主個人に依存する軍隊を作ろうとする。 領地連合では、領主は自立した貴族の助けを借りて統治し、それゆえ貴族とともに支配を行う。 平民は完全に領主に拘束され、領主の権力に対抗することはできない。 家父長制、家産制、専制政治、官僚制国家はすべて、この後者のタイプに属する。 官僚制国家秩序は特に重要であり、その最も合理的な発展において、まさに近代国家の特徴である。
近代国家の発展は、どこでも一人の君主の行動によって開始され、その君主は、行政、戦争、財政組織の手段を持つ人々の権力を収奪する。 この過程は、独立した生産者を徐々に収奪することによる資本主義企業の発展と完全に並行している。 最終的に、近代国家は、政治に関わるあらゆる全手段を支配する。
この政治的収奪の過程で、地球上のすべての国で、さまざまな成功を収めながら、別の意味での職業政治家が出現した。 彼らはまず、王子に仕えて生まれた。 彼らは、カリスマ的指導者とは異なり、自ら支配者になることを望まずに指導的地位についた者である。 収奪闘争の中で、彼らは指導者の裁量の内に安住し、政治を管理することで生計を立ててきた。
ビジネス界に趣味の延長でやる人と必要に迫られてやる人がいるように、政治の領域にも趣味的にやる人とやらざるをえずにやる人がいるかもしれない。ある意味趣味的に政治に携わり、政治団体内や政治団体間の権力配分に影響を与えようとする政治家もいる。 例えば、私たちは皆、投票するときには政治家である。
これに対して、政治を職業とするには2つの方法がある: 政治のために生きるか、政治を生計の手段として生きるかである。 この対比は決して排他的なものではない。 政治のために生きる者は、内面的な意味で政治を自分の人生とする。大義に奉仕することに自分の人生の意味があるという意識によって、内なるバランスと感覚を養うのだ。政治を永続的な収入源にしようと努力する者は、政治をやらざるをえない職業として生きるが、そうでない人は政治のために生きる。つまり私有財産制度のもとでは、ある人が政治のために生き、政治に依存しないためには、その人が政治で稼ぐ収入に経済的に依存していてはいけない。 すなわち裕福でなければならない。
政治のためだけに生き、政治に依存しない人々による国家や政党の指導は、必然的に政治的指導層を富裕層にすることを意味する。 だからといって、そのような富裕な指導層も政治を生計の手段として生活しようするかもしれないし、支配層が自らの経済的利益のために政治的肩書を利用しないとも限らない。いってしまえば、それは自然に起こってしまうことなのだ。 政治を利用して生きてこなかったような層は、これまで存在しなかった。 つまり、余裕のある政治家は自分の政治活動に対して直接報酬を求める必要はないが、資力のない政治家は必ず報酬を求めなければならないということだ。他方で、財産のない政治家が政治を通じて私的な経済的利益を追求するのはありがち、あるいは当然のことと言うつもりはない。 お金をだしに使わずに政治家、指導者、追随者を集めるためには、政治を管理する人々に定期的で確実な収入がもたらされることが前提条件となる。
政治は、裕福な人々、たとえば投資だけして他の仕事はせずに生活しているような人々によって堂々と行われるか、あるいは、報酬を必要とする財産のない人々が政治的リーダーシップを握るかのいずれかである。
近代政党政治の発展につれて、政治が権力闘争とその闘争方法の訓練を必要とする有機体へと発展したことにより、官僚(public officials)は2つのカテゴリーに分けられることになった。 一方は「行政的(administrative)」官僚であり、他方は「政治的(political)」官僚員である。 「政治的」官僚は、いつでも自由に異動させることができ、解雇することも、少なくとも一時的に辞任させることもできるという事実によって認識することができる。「政治的」要素は、何よりも既存の権力関係を維持することにある。 第二の種類である真の「行政的」官僚は、政治には関与しない。 軽蔑と偏見なしに(Sine ira et studio)、その職務を遂行する。したがって、「行政的」官僚は、政治家、指導者、そして彼に従う者が常に必ずしなければならないこと、すなわち闘うことをしない。
身を挺して、軽蔑と偏見をもって熱くなることは政治家の要素であり、とりわけ政治指導者の要素である。彼の行動は、いわゆる官僚のそれとはまったく異なる、いや、まったく正反対の責任原則に従う。 いわゆる官僚の名誉は、上司の命令を良心的に実行する能力にこそある。このことは、たとえその命令が当人にとって間違っているように見え、公務員が諌めたにもかかわらず、当局がその命令に固執する場合であっても同様である。このような道徳的規律と自己否定がなければ、組織全体がバラバラになってしまうだろう。しかし、政治指導者、一流の政治家の名誉は、まさに自分の行動に対する排他的な個人的責任にある。道徳的地位の高い官僚の本性は、政治家としての資質が乏しいことであり、とりわけ政治的な意味において、無責任な政治家であることである。 その意味で、彼らはモラルの低い政治家であり、残念ながらこれまで何度も指導的地位に就いてきた人たちだ。
立憲国家の時代以来、そして民主主義が確立されて以来、デマゴーグ(扇動的政治家)は西洋における典型的な政治指導者であった。デマゴーグの名前の由来となった昨日のアテネのデマゴーグのように、彼らは演説を駆使する。当然ながら、重要な政治家は皆、マスコミに対する影響力を必要とし、したがってマスコミとのただならぬ関係を必要とする。
さて、政党についてだが…。
最も近代的な政党組織の形態は、民主主義、大衆の選挙権、大衆を口説いて組織化する必要性、そしてできる限りの方向性の統一と厳格な規律を発展させる必要性から生まれたものである。 議会の外にいるプロの政治家たちが、組織を手にする。彼らは、党の企業家(アメリカの「ボス」)として、あるいは固定給を持つ官僚としてそうする。形式的には、はるかに進んだ民主化が行われる。もはや議会政党は骨抜きにされ、地方の名士が候補者の人選を決定することもない。 むしろ、組織化された党員の集会が新たな党員候補を選出し、より高次の集会へと送り込むのである。おそらく、党の全国大会に至るまで、このような大会が何度か開かれるのだろう。 当然のことながら、権力は、組織内で継続的に仕事を処理する人々の手に実際にある。 そうでなければ、権力は、その過程において組織が財政的または個人的に依存している人々の手にある。 アングロサクソン諸国では特徴的に「仕組み(machine)」と呼ばれるこの図式、あるいはむしろ「仕組み」を操る人々が、国会議員を牽制し続けることが決定的である。彼らは、かなり広範囲にわたって自分たちの意志を押しつけることができる立場にあり、それは党首の選出にとって特別な意味を持つ。「仕組み」が支持する人物がリーダーになる。
党員は、とりわけ党幹部と党企業家に従うが、当然ながら、リーダーの勝利から個人的な報酬、つまり役職やその他の利益を期待する。 彼らは、選挙中のリーダーの個性のデマゴギー的効果が、票と委任を増やし、それによって権力を増大させ、それによって、可能な限り、彼らが望む報酬を見出す機会を期待する。 理想的には、彼らの動機の源泉のひとつは、単に凡庸な党の抽象的なプログラムではなく、リーダーのために忠実な個人的献身をもって働くことの満足感である。 この点で、あらゆるリーダーの「カリスマ的」要素が、政党システムの中でうごめいている。
このような「仕組み」にはかなりの人員が必要である。イギリスでは、政党政治に関与して生活している人が約2,000人いる。確かに、純粋に求職者として、あるいは利害関係者として政治に参加する人の数は、特に地方政治においてははるかに多い。
さて、ではこのシステム全体の効果はどうなっているのだろうか? 今や国会議員は、一部の閣僚(と少数の反政府勢力)を除けば、強力なリーダーの下に動員された調教済のイエスマンにすぎない。 では、こうした強力なリーダーの選出はどのように行われるのだろうか? 現時点では、多くの場合、純粋に感情的な手段が用いられている。 このような現状を、「大衆の感情を利己的に利用する独裁 」と呼ぶこともできるだろう。
この戦利品制度、つまり勝利したリーダーが抱えるイエスマンに連邦政府の役職を引き渡すことは、今日の政党組織にとって何を意味するのだろうか。 それは、まったく無原則な政党が互いに対立していることを意味する。政党は純粋に、票集めのチャンスに応じて綱領を変更し、あらゆる類似性があるにもかかわらず、他ではまだ見られない程度に政党の色を変える、ゴマすり活動家の組織である。 政党は、大統領選や各州の知事選など、なんとしても職を勝ち取りたい選挙戦のために、単純かつ独裁的に作られている。綱領と党員候補は、各党の全国大会で選ばれる。予備選挙では、代議員が前もって国の指導者候補の名前で選出されている。
アメリカで同様の制度が可能であったのは、まだアメリカは発展途上であったものの、経済的には余裕があったためである。政党のために良い仕事をしたという事実以外に何の資格もない、そのような党員が30万人から40万人もいたら、甚大な弊害を避けられない。 このような汚職や浪費は、まだ経済的な余裕が無限にある国だからこそ許されるのだ。
さて、ボスは、この「民主主義的投票が政党を構築する仕組み」というこれまで見てきた図式に登場する人物である。 ボスとは誰か? それは、自分の責任とリスクで票を差配する政治資本家である。 もともと彼らは、弁護士、酒場経営者、あるいは同様の店の経営者、あるいは債権者としてこの仕組みに参入したかもしれない。 ここから糸を紡ぎ出し、一定の票数を差配できるようになったのだ。
ボスは党を組織する上で不可欠であり、党組織はボスの手中にある。 ボスは実質的に資金を提供している。 どうやって手に入れるのか? 党員からの献金もあるが、特に、ボスとボスの党を通して役職に就いた官僚の給料に課税することである。さらに、賄賂やチップもある。法律に踏み込もうとする者は、ボスの同意を得る必要であり、そのためには金を払わなければならない。しかし、これだけでは政治活動に必要な資本を蓄えることはできない。 ボスは、大財閥の資金を直接受け取る存在でなければならない。彼らは、選挙のための資金を、給料をもらっている政党の役人や、自分のことを公に説明する他の誰にも託さないだろう。ボスは資金繰りにおいて賢明な判断力を持ち、選挙に資金を提供する資本家界でも認められた人物である。典型的なボスは至って冷静である。 社会的名誉を求めず、金の源泉としての権力を求め、権力のための権力も求める。 英国のリーダーとは対照的に、米国のボスは暗躍する。 米国のボスは人前で話すのを聞かれることはなく、話し手に都合がよくなるようにレールを敷く。 しかし、彼自身は沈黙を守る。
ボスは確固とした政治理念を持たず、まったく無節操な態度で、ただ問うだけである。「どう票を集めるか?」。 ボスはどちらかといえば低学歴であることが多い。 しかし、原則として、彼は無難で節操ある私生活を送っている。 しかし、政治的行動をとる際には、自然に平均的倫理基準に合わせる。 こうして、上から下まで厳格かつ徹底的に組織化され、並外れた安定性を誇る政治クラブを基盤とした、強力な資本主義政党機構(capitalist party machine)が存在する。 タマニー・ホール(過去に存在した民主党の一派)のようなこれらのクラブは、騎士団のようなものである。 彼らは、政治的支配、とりわけ戦利品の最も重要な対象である市政の支配を通じて利益を追求する。 このような政党を巡る構造は、アメリカの高度な民主主義によって可能になった。 しかし、アメリカが年をとるにつれて、このシステムの基盤は徐々に失われつつある。アメリカはもはや素人に毛が生えた程度の者には統治できない。 ほんの15年ほど前、アメリカの労働者たちに、なぜ軽蔑している政治家たちに統治を任せるのかと尋ねたところ、答えはこうだった: 「私たちは、私たちに唾を吐きかけてくる官僚よりも、私たちが唾を吐きかけることができる人物をその役職に就かせたいからだ」。 これが、いわゆるアメリカ民主主義の古い考え方だった。
今日、職業としての政治運営がどのような形になるかは、まだわからない。 政治的才能が、満足のいく政治的仕事のために、どのように活かされるのか、それさえもわからない。
政治家という職業は、権力の感覚を与えてくれる。 人々に影響を与える知識、権力を行使する上での知識、そして何よりも、歴史的に重要な出来事に立ち会っているという感覚は、たとえ控えめな地位に置かれているとしても、政治家をありふれた日常から引き離すことができる。 しかし今、彼らに問われているのはこうだ: 「どのような資質をもってすれば、私たちはこの力(それが個々のケースにおいてどんなに狭い範囲に限定されたものであったとしても)を正当に評価することができるのだろうか?権力がわれわれに課す責任に対して、われわれはどのような正義を貫くことができるのだろうか? 」。そして、倫理的な領域に属する問題として:「 歴史の歯車に手をかけることを許される人間は、どのような人間でなければならないのか?」。
政治家にとって決定的な資質は、情熱(passion)、責任感(feeling of responsibility)、バランス感覚(sense of proportion)の3つである。
確かに政治は頭で作るものだが、頭だけで作るものでないことも確かだ。 この点では、究極の目的倫理(ethic of ultimate ends)(よい結果を得られないとわかっていても、「目的」のために行動をとる倫理)を支持する人々は正しい。 人が自分の行為の結果に対する責任を自覚し、その責任を心から感じ、魂を込めて行動するとき、それは計り知れないほど尊いものだ。 そして、責任倫理(ethic of responsibility)(どんな結果になろうとも自らの責任として引き受ける倫理)に従って行動し、「私は他のどこでもなく、ここにいる」と責任を引き受ける。 それは純粋に人間的で尊い。そして、精神的に死んでいない私たちの誰もが、その境地に達しうることに気づかなければならない。それが真実である限りにおいて、究極の目的倫理と責任倫理は対立するわけではなく、むしろ補完的なものであり、それが一体となって初めて、天職としての職業として政治に携わることのできる真の人間となるのである。
さて、諸君、10年後にもう一度この問題を議論してみよう。残念なことに、諸般の事情から、その頃には反動の時代(period of reaction)がとっくに終わっているのではないかと私は危惧している。 皆さんの多くが、そして(率直に告白するが)私も願ってきたことは、ほとんど実現されない可能性が高い。ほとんど、いや、正確には何も実現されないかもしれないが、少なくとも私たちにとってはほとんど実現されないと思われる。このことが私を押しつぶすことはないだろうが、それを実感するのは確かに内なる重荷である。そして、昨今の革命に酔いしれ、主義主張のある政治家だと自負しているあなた方がどうなっているのか、見てみたいものだ。シェイクスピアのソネット102が真実となるような展開になればいいのだが:
私たちの愛は春が終わるまでは鮮やかだった
その頃私はいつだって愛を歌っていた
サヨナキドリも夏の初めには高らかに歌い
季節の移ろいとともに歌うのをやめた
しかし、そうはいかない。私たちの前に待ち受けているのは夏の花ではなく、氷のような闇と硬質の極夜なのだ。 その闇の中では、皇帝だけでなくプロレタリアも権利を失っている。 この夜がゆっくりと引いていくとき、春がとても豪華に咲いているように見える人々のうち、生きている人がいるだろうか?そのときまでに、あなた方はどうなっているだろうか?苦い顔をしているだろうか?功利主義者になるのか?世俗的、職業的なものをただ鈍く受け入れるのか? 今後何が起ころうとも、私は、彼らが彼らの行いを省みなかったという結論を導き出さざるをえない。世俗的な日常生活における、ありのままの世界と向き合っていないのだ。客観的に見ても、また実際にも、政治家としての職業をその最も深い意味において遂行していないのだ。私的に友情を育みながら、日々の仕事を淡々とこなすだけでよかったものを。
硬い板に穴を開けるためには、力強くも丁寧にやらなければならない。政治も同様で、力強い情熱と冷静な展望の両方が必要だ。確かに、あらゆる歴史的経験は、何度も繰り返し挑戦しない限り達成できない、という真実を裏付けている。しかし、そのためには、人はリーダーでなければならず、リーダーであるだけでなく、非常に冷静な意味での英雄でもなければならない。そして、リーダーでも英雄でもない人であっても、すべての希望が崩れ去ることに勇敢に立ち向かえるような、揺るぎない心で自らを武装しなければならない。まさに今必要なのがそれであり、それを怠れば、今日可能なことさえ達成できないだろう。政治を天職とするものは、自分たちの掲げる政治理念に対して世間があまりにも愚かで、あまりにも卑屈に見えるときでも、自分たちは間違えていないし屈しないという確信に満ちた者たちだけである。あらゆる困難に直面しても、「どんなことがあっても!」と言える者だけが、政治を真の天職とするのだ。
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