ショーペンハウアー『読書について』第2章
第2章 著作と文体について
(ON AUTHORSHIP AND STYLE)
まず第一に、著者には二種類の人間がいる:読み手のために書く者と、書き手自身のために書く者だ。前者は、なんとしても書き伝えたい考えや経験を持っているが、後者はお金が必要で、その結果、お金のために書く。読み手のために書く者は熟考する必要があるが、書き手自身のために書く者は自分の考えを可能な限り長く紡ぎ出すことに専心する。そのため、中途半端で、曲解され、強引で、揺れ動くような思考が練り上げられているかどうかで、二種類の人間を見分けることができるかもしれない。
レッシングの『ドラマトゥルギー』の一部や、ジャン・ポールのロマンスの多くがいい例である。紙面を埋めることを目指して書かれていることに気づいたら、本はすぐに捨てなければならない。実のところ、紙面を埋めるために書いている時点で、作者は読者を騙しているのだ。金のために書いて著作権を主張することは、つまるところ文学の破滅である。本当に書く価値のあるものを書く者は、読み手のために書く人間だけである。文学のあらゆる分野で、少数であっても優れた本が存在するのであれば、それは何とすばらしいことだろう!しかし、書くことでお金を稼ごうとする限り、このようなことは実現しない。お金に呪われているかのように、どの作家も、お金のために何か書こうとすると、劣化を避けられない。偉大な人物の最高傑作はすべて、無報酬かわずかな報酬で書かなければならなかった時代に生まれたものである。このことは、スペインのことわざ「honra y provecho no caben en un saco(名誉と金銭は同じ財布の中にはない)」にも現れている。ドイツでも他の国でも、今日の文学が嘆かわしい状況にあるのは、本が金を稼ぐために書かれているからである。お金に困っている人は誰でも腰を据えて本を書き、大衆は愚かにもそれを買ってしまう。こうした嘆かわしい状況は、副次的に言語の荒廃をもたらす。
多くの駄作家が、印刷されたものしか読もうとしない大衆の愚かさを利用して、金を稼いでいる。私が言うジャーナリスト(駄作家)とは、そう呼ばれるべき者のことである。つまり、「日雇い労働者」である。
著者には三種類の人間がいるという考え方もある。第一に、何も考えずに書く人たちがいる。彼らは記憶から、回想から、あるいは他人の本から直接書く。このクラスが最も多い。第二に、書きながら考える人々である。彼らは書くために考える。第三に、書き始める前に考えている者がいる。彼らは考えたからこそ書く。
書き始めるまで思考を先延ばしにする第二のクラスの作家は、行き当たりばったりで出かけるスポーツマンのようなもので、たいした収穫はないだろう。一方、第三の著者、つまり希少なクラスの著者の執筆は、獲物を事前に捕獲して囲いの中に閉じ込めておき、一度に何匹も別の囲いの中に放し飼いにする追いかけっこのようなものである。これこそ、何かを得るスポーツである。
しかし、書く前に本当に真剣に考える作家の数は少ないが、テーマそのものについて考える作家は極めて少数である。考えるためには、他人の考えという、より直接的で強力な誘因を得なければならない。それが彼らの次のテーマとなり、それゆえ彼らは常にその影響下にとどまり、厳密に言えば決してオリジナルではない。それとは反対に、前者はテーマそのものを通して思考を喚起され、したがって彼らの思考は即座にそのテーマに向けられる。彼らの中にこそ、不滅の名を持つ作家がいるのである。私がここで言っているのは、文学の高次の分野の作家のことであって、ブランデーの蒸留法に関する作家のことではない。
読む価値があるのは、自分の頭から直接書く材料を取り出した作家だけである。製本業者、編集者、普通の歴史作家、そして彼らのような人たちは、本から直接素材を取り出している。(もし自分の本に書いてあることをすべて知っていたら、どれほどの学識者になるだろうか!)。それゆえ、彼らの話はあいまいなことが多く、彼らが本当は何を考えているのか理解するのに無駄に頭を悩ませる。彼らはまったく考えていないのだ。そのため、この種の文章は、ギプスのギプスのギプスのようなものであり、そうして最終的に残るのは、アンティノウスの顔の輪郭がほとんどわからないものだけである。それゆえ、編纂物はできるだけ読まない方がよい。数世紀にわたって収集された知識を小さなスペースに収めた『大系』も編纂物に含まれるのだから、完全に避けるのは難しい。
最も新しく書かれたものが常に正しく、後に書かれたものは前に書かれたものを改良したものであり、あらゆる変化は進歩を意味すると想像することほど大きな間違いはない。思慮深く、正しい判断力を持つ人間や、自分のテーマに真摯に取り組む人間は、すべて例外にすぎない。害虫は世界のどこにでもいるものだ。常に手元にあり、思想家の成熟した考察を自分なりに改良しようと忙しく働いている。科学は常に進歩し、古い書物は新しい書物の編纂に利用されてきたと思い込んで、その書物について書かれた最新の書物をすぐに手に取らないように注意しなければならない。確かに古い書物は利用されている。書き手は古い書物を十分に理解していないことが多い。同時に、古い書物の言葉をそのまま使わない。彼らが書いた最良のもの、その問題についての最も印象的な解明、最も幸福な発言を、彼はしばしば省いてしまう。彼にアピールするのは、愚かで浅薄なものだけなのだ。古くて優れた本が、新しくて悪い本のために棚上げにされることはよくあることだ。お金のために書かれた本は、気取った雰囲気をまとい、著者の友人たちによって賞賛される。科学の世界では、自分を際立たせようとする者が何か新しいものを市場に持ち込む。彼の試みは短期間成功することもあるが、その後、古く正しい教義に回帰する。このような革新者たちは、自分自身のかけがえのない人間以外の何ものにも真剣に取り組んでいない。彼らはパラドックスを始めることによって、これを速やかに実現する。彼ら自身の頭の不毛さは、彼らが否定の道を歩むことを示唆している。そして、長い間認識されてきた真理が、今では否定されている-例えば、生命力、交感神経系、generatio equivoca、ビシャの情動の働きと知性の働きとの区別、あるいは、粗雑な原子論への回帰などなど。それゆえ、科学の進歩はしばしば後退する。
この種の作家には、著者を翻訳すると同時に、その著者を修正し、改変する翻訳者も属する。翻訳する価値のある本を自分で書き、他人の本はそのままにしておく。可能であれば、本物の著者、物事の創始者や発見者、あるいはあらゆる学問の分野で認められた偉大な巨匠を読むべきだし、新しい本でその内容を読むよりも、古本を買うべきだ。
それゆえ、人は自分の専門分野の原理を学んだ後、それについて書かれたより新しい情報に精通しなければならない。一般に、ここでも他の場所と同様、次のような法則が成り立つ。
宛名が手紙にとってそうであるように、題名は本にとってそうであるべきだ。つまり、題名の当面の目的は、その本の内容に興味を持つ一般の人々に、その本を届けることである。したがって、タイトルは効果的であるべきであり、基本的に短いものであるため、簡潔で、饒舌で、含蓄があり、可能であれば内容を一言で表すものでなければならない。したがって、冗長なタイトル、まったく意味をなさないタイトル、間接的であいまいなタイトルはよくない。最悪のタイトルは、盗用されたもの、つまり他の本がすでにつけているようなタイトルである。自分の本の新しいタイトルを考えるだけの独創性がない人は、その本に新しい内容を与える能力もないだろう。例えば、私が『自然における意志について』を書いたずっと後に、エルステッドが『自然における心について』を書いた。
本というものは、著者の思考の印象以上のものにはなり得ない。その思想の価値は、著者がその思想について考えた事柄か、その事柄をどのような形で展開したかにある。
書物の内容は実に多様であり、その内容によって書物に与えられるメリットもまた多様である。経験の結果であるすべての事柄、言い換えれば、歴史的なものであれ物理的なものであれ、それ自体として、またその最も広い意味において、事実に立脚しているすべてのものは、事柄という用語に含まれる。書物に独特の性格を与えるのはモチーフであり、書物は著者が誰であろうと重要でありうる。しかし、その主題がどのような形式で説かれるか、その主題についてどのような考察がなされたかによって、その書物の価値は決まる。したがって、この観点から見て、ある書物が優れていて、ライバルがいないのであれば、その著者もまた同様である。このことから、読むに値する作家の長所は、その作家が物質に依存していなければいないほど大きくなり、その物質がよりよく知られ、使い古されていればいるほど、その長所は大きくなるということになる。たとえば、ギリシャの三大悲劇作家はみな同じ題材を扱っていた。
だから、ある本が有名になったとき、それがその主題によるものか、形式によるものかを注意深く見分ける必要がある。
ごく平凡で浅薄な人間が、非常に重要な書物を生み出すことができるのは、彼らだけが手に入れることができたその主題のおかげである。たとえば、外国についての記述、珍しい自然現象、実験、歴史的な出来事などである。
一方、私たちが頼りにしているのは形式的なもので、その事柄が誰にでも理解できるものであったり、非常によく知られているものであったりする場合である。他の人は、他のすべての人が考えることが可能なことを考えるだけである。彼らは自分の心の印象を与えるが、誰もがその印象の原型をすでに持っている。
しかし、大衆は形よりも問題に非常に関心があり、そのために高度な文化に遅れをとっている。ゲーテが書いたものよりもゲーテについての本を読み、ゲーテのファウストそのものよりもファウスト伝説を熱心に研究する。ビュルガーが「人々はレオノーラが本当は誰であったかについて、学問的な解説をするだろう」と言ったが、ゲーテの場合は文字通りその通りになった。それらは純粋に物質的なものであり、これからもそうであろう。形よりも物質を好むというのは、エトルリア時代の立派な壺の形や絵を無視して、その壺の粘土や色を化学的に調べるようなものである。使用される物質によって効果的であろうとする試みは、それによって大衆のこのような邪悪な性向に加担することになり、例えば詩作のように、長所が明白に形にあるべき文章分野では、絶対に非難されるべきである。しかし、扱う題材によって劇場を満たそうとする悪質な劇作家は数多い。たとえば、どんな有名人でも、その生涯がどんなに劇的な出来事から切り離されていたとしても、舞台に登場させる。
私がここで述べている物質と形式の区別は、会話に関しても当てはまる。人が会話をすることができるのは、主として知性、判断力、機知、快活さであり、それらは会話に形を与える。しかし、会話の問題はすぐに明らかになる。つまり、人がその人と話すことができること、すなわちその人の知識についてである。もしその知識が非常に少なければ、その人の会話に価値を持たせるのは、その人が上記のような形式的資質を極めて高いレベルで備えている場合に限られる。というのも、彼の話す内容は、一般に知られている人間性や自然に関することに限定されるからである。このような形式的な資質が欠けていても、他方で、彼の会話に価値を与えるような知識を持っていれば、その逆である。
思考が本当に生きているのは、それが言葉の境界線に達するまでである。本当は一瞬の存在であるその存在は、結晶化した瞬間の水晶に例えられるかもしれない。
思考が言葉を見つけたとたんに、それはもはや私たちの中に存在しなくなるし、その最も深い意味において深刻でもなくなる。
他人のために存在し始めると、それは私たちの中に存在しなくなる。ちょうど子供が存在するようになると、母親から自由になるように。詩人はこうも言っている:
私に反論して混乱させてくれるな!
あなたが口を開いた時点で、すでにあなたは間違いを犯しているのだ
ペンは思考にとって、ステッキが歩行にとってそうであるように、手元にペンがないとき、人はステッキなしで最も簡単に歩き、最も完璧に思考する。人が杖やペンを使いたがるのは、年を取り始めてからである。
いったん心の中で地位を得た、あるいは心の中で生まれた仮説は、外界から自分にとって有利で同質な物質だけを受け取る限りにおいて、生物のそれに似た生活を送る。
抽象的で不定な用語は、具体的で特定された量の代わりに、代数学で使われるように、風刺でも使われるべきである。しかもそれは、生きている人間の体に解剖用のナイフを当てるのと同じように、控えめに使われるべきである。彼の命を失う危険を冒してまで、それは危険な実験なのだ。
不朽の作品となるためには、そのすべてを理解し、評価する人を見つけるのが容易でないほど、多くの優れた点を備えていなければならない。
このような作者、言い換えれば、後世に生き続ける権利を持つ作者とは、広い世界の同時代の人々の中で、彼のような人物を無駄に探し求め、その際立った特徴によって、他の誰よりも際立って対照的な存在となるような人物でなければありえない。要するに、アリオストが言うように、彼は「自然を愛し、そのために生きる」のである。もしそうでなければ、なぜ彼の考えが他の人々のように滅びないのか、理解できないだろう。
文学であれ芸術であれ、ほとんどすべての時代において、徹底的に間違った考えや流行や作法が流行していれば、それが賞賛されることがわかる。凡庸な知性の持ち主は、それを身につけ、実践するために過度に苦労する。知性のある人はそれを見抜き、軽蔑する。何年か後、大衆はそれを見抜き、見せかけのものをそれなりの値打ちのあるものとして受け取る。私たちは、長い間ひそかに意識してきた根本的に間違った考え方が、ついに定着し、声高に、そして公然と宣言されることを喜ぶべきであり、残念に思う必要はない。その偽りはすぐに感じられ、やがて同じように声高に、そして公然と宣言されることになる。まるで膿瘍が破裂したかのように。
匿名の批評家が書いた記事を出版し、編集した者は、あたかも彼自身が書いたかのように、直ちにその責任を問われるべきである。このようにすれば、その批評家は何の儀礼もなく、当然の扱いを受けることになる。
匿名の作家は、文学的詐欺師であり、「哀れな者よ、他人を誹謗中傷していることを認めたくないのなら、その誹謗中傷に口をつぐめ」と即座に叫ぶべきである。
匿名の批評は匿名の手紙以上の重みを持たない。それとも私たちは、実際には匿名結社を代表する人物の偽名を、その友人の信憑性を保証するものとして受け入れたいのだろうか?
作家の間に存在するわずかな正直さは、彼らが他人の著作から引用を誤る無分別な方法で見分けることができる。私の著作の一節全体が誤って引用されているのを見かけるが、例外があるのは、きわめて明晰な私の付録だけである。誤引用は不注意によることが多く、そのような人のペンは、些細で平凡なフレーズを書き留めるのに使われてきたため、習慣的に書き続けてしまうのである。誤引用は、私の作品を改良しようとする者の不遜な態度によることもあるが、悪い動機が誤引用を促すこともあまりに多い。
文体は心の人相である。人格を知る鍵としては、身体の人相よりも信頼できるものである。他人のスタイルを真似ることは、仮面をかぶるようなものだ。どんなに立派な仮面をつけても、生気がないためにすぐに無味乾燥になり、耐えられなくなる。だから、ラテン語で昔の作家の文体を真似て書いている作家は、本質的に仮面をかぶっている。しかし、自分の頭で考える人たち、たとえばスコトゥス・エリゲーナ、ペトラルカ、ベーコン、デカルト、スピノザなど、模倣することをよしとしなかった人たちのラテン語の著作の文体を観察することはできる。
文体における気取った態度は、にやけた顔をするようなものである。人が書く言語は、その民族の人相であり、ギリシャ人の言語からカリブ海の島民の言語に至るまで、多くの違いを生み出している。
私たちは、他の作家の作品の文体に見られる欠点を探し求めなければならない。
ある作家の作品の価値を暫定的に推し量るためには、その作家が考えた事柄や、それについて彼が考えたことを正確に知る必要はない。彼の文体は、彼がどのように考えたか、彼の思考の本質的な状態や一般的な質を正確に表現している。文体は、その人が考えたテーマが何であれ、またそれについて何を語ったのかが何であれ、その人のすべての思考の形式的な性質-それは常に同じでなければならない-を示している。オイレンシュピーゲルは、オイレンシュピーゲル時代、自分の考えを練り直すために、オイレンシュピーゲルの “生地 “を作っていた。オイレンシュピーゲルがある男から、次の場所に着くまでにどのくらい歩かなければならないかと尋ねられ、ウォークという一見不合理な答えを返したとき、彼の意図は、その男の歩き方から、一定時間内にどれだけの距離を進むかを判断することだった。ある作家の作品を数ページ読んだだけで、その作家がどこまで私を助けてくれるかがわかる。
これが現実なのだという密かな自覚のもと、凡庸な作家は皆、自分の自然なスタイルを覆い隠そうとする。このことは即座に、ナイーブであるという考えを放棄することを必要とする。ナイーブであることは、自分の優位性を自覚し、それゆえに自分自身を確信している優れた精神に属する特権である。例えば、普通の知性の持ち主であれば、自分の考えをそのまま書こうと決心することは絶対に不可能である。しかし、それは常に何らかの価値がある。もし彼らがただ正直に仕事に取り組み、彼らが本当に考えたほんのわずかな普通の考えを単純な方法で表現するならば、彼らはそれ自身の領域では読みやすく、有益でさえあるだろう。しかしその代わりに、彼らは実際よりもずっと深く考えたように見せかけようとする。その結果、言わなければならないことを、無理矢理で込み入った言葉に置き換えたり、新しい言葉や冗長な期間を作り出したりする。彼らは、考えを伝えることと隠すことの二つの試みの間で躊躇する。彼らはその思考を壮大に見せ、学識があり深遠であるかのように見せかけようとする。従って、彼らは自分の考えを、短い、あいまいな、逆説的な文章で断片的に書き記すこともある(この種の文章の見事な例は、シェリングの自然哲学論考に見られる); 時には、言葉の群れと耐え難い拡散性で自分の考えを表現し、あたかもその言い回しの深遠な意味を理解できるようにするために感動を与える必要があるかのようである、 たとえば、カトシェウの深遠で科学的な文体であり、思考を一切排除した長大な文章による麻薬効果で死ぬまで苦しめられるような文体である(この例は、あらゆる人間の中で最も不遜なヘーゲル主義者たちが、『Jahrbücher der wissenschaftlichen Literatur』として一般に知られているヘーゲル新聞に特別に載せている); あるいはまた、知的なスタイルを目指して、まるで気が狂いそうになる。nascetur ridiculus musを先延ばしにしようとするこのような努力は、彼らの真意を理解することをしばしば困難にする。さらに彼らは、それ自体には何の意味もない単語を、いや、全期間を書き留める。このような努力の根底にあるのは、常に新しい道を切り開き、思考に言葉を売り込み、新しい表現や新しい意味で使われる表現、言い回しの変化やあらゆる種類の組み合わせによって、痛切に感じている知性の欠乏を補うために知性の外観を作り出そうとする無尽蔵の試み以外の何ものでもない。このような目的で、まずこのようなマンネリズム、次にあのようなマンネリズムが試されるのを見るのは愉快である。これらは知性の仮面を表そうとするものである。この仮面はしばらくの間、経験の浅い人を欺くかもしれないが、それが死んだ仮面にすぎないとわかるまでは、笑われて別の仮面と交換される。
この種の作家が、あるときは、まるで酔ったかのように、ディシラムのような文体で書いているのを見かける。あるときは、いや、次のページでは、高らかに、厳しく、深く学び、退屈の極みまで諄々と語り、現代的な衣裳を身にまとっただけの故クリスチャン・ウルフのように、あらゆるものを非常に小さく切り取っている。しかし、それはドイツにおいてのみであり、フィヒテによって導入され、シェリングによって完成され、最終的にヘーゲルにおいて最高のクライマックスに達した。しかし、誰にも理解できないように書くことほど簡単なことはない。他方、誰もが理解できるように学問的思想を表現することほど難しいことはない。もし書き手が本当に知性を持っているのなら、上に挙げたような芸術はすべて余計なものである: Scribendi recte sapere est et principium et fons.
しかし、この種の作家は、金属を扱うある種の職人のようなもので、金の代わりをしようと100種類もの組成を試す。というのも、人は常に、その性質がどうであれ、実際には持っていないものに影響を与えるからである。だからこそ、ナイーブと呼ぶことは作者にとって賞賛に値するのである。一般に、ナイーブさは人を惹きつけるが、不自然なものはどこであろうと反発する。また、真の思想家は皆、自分の考えをできるだけ純粋に、明確に、確実に、簡潔に表現しようと努めている。シンプルであることが、真実の証であるだけでなく、天才の証でもあると考えられてきたのはこのためである。文体は、表現された思考からその美しさを受け取る。一方、考えるふりをしているだけの作家は、その文体のせいで思考が素晴らしいと言われる。文体は思考のシルエットに過ぎず、曖昧な文体や悪い文体で書くことは、愚かな心や混乱した心を意味する。
したがって、最初のルールは、いや、それ自体で、良い文体にはほとんど十分なのである。ああ、これは大きな意味を持つ。このルールの軽視は、哲学者の、そして一般的に言えば、ドイツの、特にフィヒテの時代以降の、すべての反省的な作家の基本的な特徴である。これらの作家は皆、言いたいことがあるように見せかけたいのであって、言うべきことは何もないのは明らかである。このマンネリズムは、大学の似非哲学者たちによって持ち込まれたものであり、その時代の最初の文学者たちの間でさえも、いたるところに見られる。このマンネリズムは、2つ、いや、いくつもの意味があるかのような、強引で曖昧な文体や、冗長で重苦しい文体le stile empesé_の母体であり、また、これほど役に立たない大げさな文体や、そして最後には、最もひどい思考の貧しさを、カチャカチャと音を立てる粉砕機のような無尽蔵のおしゃべりの下に隠してしまう、まさに唖然とさせるような文体の母体である。ハレッシェン』(後に『ドイツ・ジャーブーカー』と呼ばれる)は、このような文体の優れた例をほぼ全体にわたって提供している。ところで、ドイツ人は習慣的に、このようなあらゆる種類の冗長な文章を何ページも何ページも読んでしまうが、著者が本当に言いたいことは何なのか、明確な考えを持つことはない。一方、アイデアに富んだ優れた著者は、すぐに読者から、本当に本当に言いたいことがあるのだという信用を得る。この種の著者は、本当に言いたいことがあるからこそ、常に最も単純で直接的な方法で自分を表現する。したがって、彼はボワローのように言うことができるだろう。
「大いなる日において、私の思想は、いつだってそれを提供し、さらけ出す、
そして私の詩は、良きにつけ悪しきにつけ、常に何かしらの選択をしている。
一方、先に述べたような作家については、同じ詩人の言葉を借りれば、et qui parlant beaucoup ne disent jamais rienと言えるかもしれない。また、このような作家の特徴として、可能であれば自分自身を明確に表現することを避け、いざというときにいつでも難を逃れることができるようにする。このため、彼らは常に抽象的な表現を選ぶのに対して、知性のある人はより具体的な表現を選ぶ。このような抽象的な表現を好む傾向は、多くの例で確認することができる。ここ10年のドイツ文学のいたるところで、”条件づける “という表現が、”原因づける “や “結果づける “の代わりに使われている。これはより抽象的で不明確な表現であるため、意味するところよりも言うことが少なくなり、その結果、自分の能力の低さをひそかに自覚し、あらゆる明確な表現を絶えず恐れている人たちを喜ばせるために、ちょっとした裏口を開けておくことになる。他国民の場合は、文学の愚かさや生活の邪悪さを即座に模倣しようとする国民的傾向の影響に過ぎない。イギリス人は何を書くにも何をするにも自分の判断に頼るが、これはドイツ人には他のどの国民よりも当てはまらない。このような状況の結果、ここ10年の文献からは、”原因 “と “結果 “という言葉はほとんど消え去り、どこの国でも “条件 “について語られるようになった。この事実が特筆に値するのは、それが特徴的に馬鹿げているからである。日常的な作家は、文章を書くときに半分しか意識していない。この事実が、彼らの知性の欠如とその文章の退屈さの原因となっている。それゆえ、彼らは単語よりもフレーズ全体を組み合わせる。このことが、明らかに特徴的な、明確に定義された思考の欠如を物語っている。実際、彼らは自分の思考を刻印する型を欠いており、自分自身の明確な思考を持っていない。その結果、彼らの霧に包まれたような文章は、古い活字で書かれた印刷物のようになってしまう。一方、知的な人たちは、文章で私たちに語りかけてくる。個々の言葉を、その用途を十分に意識して配置し、熟慮して選択するのは、知的な書き手だけである。それゆえ、彼らの文体は、先に述べたような作家の文体と、実際に描かれた絵が型紙で描かれた絵と同じような関係にある。最初の例では、筆の一筆一筆が特別な意味を持つように、すべての言葉が特別な意味を持つが、もう一方の例では、すべてが機械的に行われる。音楽でも同じことが言える。リヒテンベルクの観察、すなわちギャリックの魂は彼の身体のすべての筋肉に遍在している。上記で言及した著作の退屈さに関して、一般的に、退屈さには2つの種類があることが観察される-客観的なものと主観的なものである。客観的な退屈さは、これまで述べてきたような欠乏から生じる。つまり、著者が伝えるべき完璧に明確な考えや知識を持っていない場合である。もし作家が明確な思想や知識を持っていれば、それを伝えることが彼の目的であり、この目的を念頭に置いて仕事をすることになる。その結果、彼が提供する思想はいたるところで明確に定義され、拡散することもなく、意味もなく、混乱することもなく、その結果退屈することもない。たとえ彼の基本的な考えが間違っていたとしても、そのような場合には、それは明確に考え抜かれ、よく熟考されたものである。言い換えれば、それは少なくとも形式的には正しいものであり、その文章は常に何らかの価値を持つ。同じ理由で、客観的に退屈な作品は、常に価値がない。この場合も、主観的な退屈さは相対的なものに過ぎない。これは、読者が作品の主題に関心を持たないからであり、読者が関心を持つものは非常に限定された性質のものだからである。従って、最も優れた作品が、この人やあの人にとっては主観的に退屈であるかもしれないし、逆に、最悪の作品が、この人やあの人にとっては主観的に面白いかもしれない。
もしドイツ人作家が、人は可能であれば偉大な頭脳のように考えるべきだが、他のすべての人と同じ言葉を話すべきだということに気づけば、それは一般的な役に立つだろう。人は一般的でないことを言うのに一般的な言葉を使うべきだが、彼らはその逆を行っている。些細な考えを壮大な言葉で包み込もうとしたり、ごく普通の考えを最も非凡な表現で、最も突飛で、人工的で、最も珍しい言い回しで着飾ろうとしたりする。彼らの文章は常に竹馬の上を歩き回る。大げさな表現に喜びを感じ、一般に大仰で、膨れ上がり、非現実的で、大げさで、アクロバティックな文体で文章を書く彼らの原型はピストルであり、彼はかつて友人であるファルスタッフに「この世の人間のように、言いたいことを言え!5」とせがまれた。
ドイツ語にはstile empeséに正確に対応する表現はない。不自然さと組み合わさったとき、それは作品において、社交における影響された重厚さ、壮大さ、不自然さと同じであり、同様に耐え難いものである。日常生活で愚かな人々が重厚さや形式を装うのが好きなのと同じように。
このようなスタイルで文章を書く人は、暴徒と間違われたり混同されたりするのを避けるために身なりを整える人のようなものだ。したがって、平民がその服装や四つのエチケットで見分けられるように、普通の作家もそのスタイルで見分けられるのである。
しかし、単純明快でナイーブな方法で表現すれば、正しい効果を生み出さないことはない。しかし、単純明快でナイーブな表現をすれば、正しい効果を生み出さないことはない。これまで述べてきたような作為的な表現をする人は、発想も頭脳も知識も貧困であることを裏付けている。
とはいえ、話した通りに書こうとするのは間違いである。話すように書くのは、その逆、つまり書くように話そうとするのと同じくらい誤りである。そのため、筆者は衒学的になり、同時に理解しにくくなる。
表現の不明瞭さや曖昧さは、いつでもどこでも非常に悪い兆候である。百発百中の九十九の場合、それらは思考の曖昧さから生じており、その思考はほとんどの場合、根本的に不調和で、矛盾しており、したがって間違っている。正しい思考が心に芽生えると、その思考は明確な表現を求めて努力し、すぐにそれを達成する。思考力のある人間は、いつでも明瞭で理解しやすく、曖昧さのない言葉で自らを表現することができる。難解で、曖昧で、複雑で、曖昧な言い回しをする作家は、自分が何を言いたいのか、正しく理解していない。フィヒテ、シェリング、ヘーゲルのように、彼らは自分が知らないことを知っているように、自分が考えていないことを考えているように、自分が言っていないことを言っているように見せたいのだ。
では、本当に伝えたいことがある人は、それを明瞭に言おうとするのだろうか、それとも不明瞭に言おうとするのだろうか。クインティリアヌスはすでにこう言っている。ということは、このような表現が曖昧であることを意味する。
人間の表現方法は謎めいたものであってはならない。ドイツの作家を退屈なものにしているのは、表現の不確かさである。唯一の例外的なケースは、ある意味で不合理な性質を持つものを表現しようとする場合である。奇想天外な表現が一般に作家の狙いと逆の結果を生むように、言葉は思考を理解しやすくするのに役立つ。しかし、それはある時点までである。その時点を超えて言葉が積み重なれば、伝えようとする思考はますます不明瞭になる。そのポイントを押さえることが文体の問題であり、見識の問題である。余分な言葉はすべて、その目的が遂行されるのを妨げるからである。ヴォルテールが「l’adjectif est l’ennemi du substantif」と言ったのはこの意味である。(しかし、実に多くの作家が、言葉の多さの下に、思考の貧困を隠そうとしている)。
したがって、冗長な文章や、読むに値しない意味のない考察を束ねることは避けるべきである。作家は読者の時間、集中力、忍耐力を惜しんではならない。そうすることで、読者は自分の前にあるものが注意深く読むに値するものであり、そのために費やした労力に報いるものであると確信するのである。言うに値しないことを書き記すよりも、良いことを書き残す方が常に良いのである。ヘシオドスのp? ?5?s?p?t?6が正しく適用されていることがわかる。実際、すべてを言うわけではない!Le secret pour jtre ennuyeux, c’est de tout dire. したがって、可能であれば、真髄のみ! 主要な事柄のみ! 読者が自分で考えるようなことは何もない。わずかな思考を表現するために多くの言葉を使うことは、どこにでもある凡庸さの紛れもないしるしであり、わずかな言葉で多くの思考をまとうことは、卓越した精神の紛れもないしるしである。
裸の真理は最も美しく、その表現が単純であればあるほど、その印象は深くなる。これは一つには、聞き手が二次的な思考に惑わされることなく、聞く者の心を遮ることなくとらえることができるからであり、また一つには、聞き手が、ここでは修辞の技術によって堕落させられたり欺かれたりしているのではなく、すべての効果はそのこと自体から得られていると感じるからである。たとえば、人間存在の空虚さについて、ヨブの言葉以上に印象的な宣言があるだろうか: 女神の生まれであるホモは、短い時間しか生きられず、多くの災いに満ちている。ゲーテのナイーブな詩が、シラーの修辞的な詩とは比べものにならないほど偉大なのは、まさにこのためである。多くの民謡が私たちに大きな影響を与えるのもこのためである。作者は、不必要な修辞的装飾、無駄な増幅、一般的には建築と同じように、過剰な装飾、過剰な表現に注意しなければならない。冗長な表現にはすべて弊害がある。シンプルでナイーブという法則は、すべての優れた芸術に当てはまる。
つまり、必要なことと不必要なことを正しく区別することである。一方、文法はともかく、簡潔さのために明瞭さを犠牲にしてはならない。言葉を少なくするために、思想の表現を貧弱にしたり、期間の意味を不明瞭にしたり、台無しにしたりすることは、嘆かわしい判断力の欠如を示している。最近流行している偽りの簡潔さは、まさにこのことをやろうとしているのである。作家は、目的に適った言葉を省くだけでなく、文法的、論理的な要点さえも省くのである7。
ドイツ文学における文体の誤りである主観性は、文学の劣化と古い言語の軽視によって、ますます一般的になっている。主観性とは、作家が自分の言いたいことを自分自身が知っていれば十分だと考え、読者にその意味を理解させることを意味する。読者について悩むことなく、あたかも独白しているかのように書くのである。文体が主観的であってはならず、客観的であるべきなのはまさにこのためであり、客観的であるためには、作者が考えたことと同じことを読者にも考えさせるように、言葉が直接的に書かれなければならない。これは、思考が重力の法則に従う限り、紙から頭へよりも頭から紙への方がより簡単に通過することを著者が心に留めている場合にのみ成り立つ。したがって、紙から頭への旅は、あらゆる手段を使って助けられなければならない。一方、主観的な文体は、壁に描かれた斑点と大差ないほど確かな効果をもたらさない。このような違いは、あらゆる文体全体にあてはまるものであり、また特定の例においてもしばしば見られるものである: 私は既存の本の数を増やすために書いたのではない」。これは書き手の意図とは正反対の意味であり、ナンセンスである。
不注意な文章を書く人は、その人自身が自分の考えに大した価値を置いていないことをすぐに証明してしまう。なぜなら、自分の考えが真実で重要であると確信することによってのみ、その考えを最も明確で、最も素晴らしく、最も力強い表現にするための無尽蔵の忍耐に必要なインスピレーションが、私たちの中に生まれるからである。このような理由から、昔の作家たちは、彼らの考えを彼ら自身の言葉で表現し、何千年にもわたって受け継がれ、それゆえに古典という栄誉ある称号を与えられてきたのである。実際、プラトンは『共和国』の序論を7回書き直したと言われている。一方、ドイツ人は他のどの国よりも、文章を書く際の文体の乱れや服装の乱れが目立つ。服装の乱れは、その人が生活している社会を軽んじているのと同じように、性急で、無頓着で、下手な文体は、読者に対する衝撃的な無礼を示す。