1999年に出版された宇沢弘文の『ゆたかな国をつくる 官僚専権を超えて』(岩波書店)を読みました。過去の著作のエッセンスがぎっしりと詰められた作品でして、全編が「官僚専権に対する憤怒」で覆われていました。高度経済成長の裏でないがしろされてきた社会的共通資本、そしてそれを促進してきた官僚専権。宇沢が身悶えするような怒りを抱くのも無理からぬことだと思いました。まず、社会的共通資本がなんであるかを確認し、そのあとで高度経済成長や官僚専権がどんな弊害をもたらしたのかを追ってみようと思います。
社会的共通資本とは
社会的共通資本というのは宇沢の造語でして、その思想を象徴する言葉です。定義が記された箇所を引用します。
社会的共通資本は、一つの国ないし特定の地域が、ゆたかな経済生活をいとなみ、すぐれた文化を展開し、人間的に魅力ある社会を持続的、安定的に維持することを可能にするような社会的装置を意味します。社会的共通資本は原則として、私有ないしは私的管理が認められないような希少資源から構成され、社会全体にとって共通の財産として、社会的な基準にしたがって管理、運営されます。(P13)
社会的共通資本の具体例を挙げておきましょう。
大気、森林、水、土壌、河川、海洋などの自然環境、道路、公共的交通機関、上下水道、電力、ガスなどの都市的インフラストラクチャー、教育、医療、金融制度などの制度資本が、社会的共通資本の重要な構成要素である(P14)
社会的共通資本の考え方は、ジョン・デューイやソースティン・ヴェブレンといった学者が使った本来的な意味での「リベラリズム」の思想から生み出されたものです。リベラリズムの思想は、「人間の尊厳を守り、魂の自立を支え、市民的自由が最大限に確保できるような社会的、経済的制度を模索」(P11)することを求めます。ヴェブレンに代表される制度派経済学では、市場経済が制度的諸条件(法律や規制、政策、文化などの社会的な文脈)に大きく左右されることを前提として、市場の失敗を防ぎ、リベラリズムを実現するには、臨機応変に(進化論的に)市場経済と制度的諸条件の関係性に外部から手を加えることが不可欠だと考えました。これにそくして、市場経済と社会的共通資本の相互関係も、外部から恣意的にコントロールする必要があると宇沢は考えたわけですが、戦後の日本社会はそのコントロールを誤ったばかりか、社会的共通資本を破壊する経済行動を促進してきました。
社会的共通資本の適正な管理は、どのように実現されるのでしょうか。官僚的に管理されると、その地域の自然的、歴史的、文化的、経済的、社会的、技術的特性が十分に考慮されることなく、地元との対話もほとんどなされないままに強権的な管理が進められることになります。そうすると、自らの地位の保全に汲々としている行政官僚たちが、市民一人一人の人間的尊厳や基本的権利を配慮することなく、社会的共通資本を不適切に扱うことになるのです。だからといって社会的共通資本の管理を市場経済に託してよいわけではありません。市場経済の担い手である各企業は、四半期決算にあらわれる目先の利潤の増大を目的にして行動するわけですが、社会的共通資本というのは世代を超えて安定的に供給されることに意味があるので、市場経済的に管理しようにも無理があるのです。当座の利益のために社会的共通資本が破壊されるようでは、リベラリズムなど実現しようがありません。市場経済に任せていたら、公平な分配も実現されません(アメリカの医療がいい例です)。宇沢は次のように述べます。
社会的共通資本は決して、国家の統治機構の一部として官僚的に管理されたり、また利潤追求の対象として市場的な条件によって左右されてはならないということです。社会的共通資本の各部門は、職業的専門家によって、職業的規範にしたがって管理、維持されるべきものであることを改めて確認しておきたいと思います。(P14)
ここでいう職業的専門家には、学者だとか、地方行政職員のうちの技術屋さん(地方行政は、農林系、土木系、水産系など、地域の実情をよく理解した専門家を職員として抱えています)だとか、ときにはNPO法人なんかが含まれるのではないかと思います。そういった人たちによる、地域特有の事情を踏まえた適切な管理が必要なのです。
しかし、とりわけ1955年に専政のはじまった自民党政権下で、行政官僚は節操なく強権化し、社会的共通資本は官僚の自己都合にあわせて杜撰に管理されることになりました。さらに1960年代半ばにはじまった高度経済成長が、社会的共通資本の破壊を推し進めることになるのです。宇沢は、高度経済成長によって少なくとも表面的には人々の実質的生活水準が上昇したことを認めますが、それ以上に高度経済成長の裏側で進んだ自然環境の破壊、そして社会的・文化的環境の荒廃を重く見ます。豊かになったように見える消費活動も、「利潤追求のためにつくり出された製品多様化であったり、外見的な欲望を刺激し、満足させるだけの空虚な消費形態によって左右されていたりして、その実質的内容はむしろ貧困化している」(P26)と宇沢は指摘します。高度経済成長がもたらした経済的害悪を宇沢は次のように表現します。
空虚で危険な消費生活を営むために、人々がさまざまな消費財を購入しなければ、充分な有効需要が形成されず、経済循環のプロセスが円滑に機能しなくなり、数多くの失業者を生み出さざるを得ないというのが高度経済成長がもたらした経済的帰結といってよいわけです。(P26)
さて、本書の冒頭以降では、実際に社会的共通資本が、自民党・行政官僚・大企業のトロイカ体制によってないがしろにされてきた事例がいくつも紹介されています。成田空港建設にともなう強引な土地収用、政府の不手際と往生際の悪さにより拡大した水俣病、土地の利用計画が定まらないまま強制的に進められた六ケ所村(むつ小川原)の開発とそれに伴う広大な農村破壊、大銀行のための非倫理的な金融行政(護送船団方式)が引き起こした住専問題と金融バブル、社会的・経済的不平等を再生産する社会的装置へと堕落した学校教育。社会的共通資本の破壊に対する宇沢の怒りは広範囲に渡り、悪行の根源がどこにあるのかが事例ごとに冷徹に分析されています。以下では、個人的に関心を引かれた、①農業基本法の導入による日本農業の破壊と、②ル・コルビュジェの「輝ける都市」がもたらした都市の危機、について簡単に掘り下げたいと思います。
社会的共通資本の破壊①
農業基本法の導入による日本農業の破壊
戦後、一戸一戸の農家を自立させるべく、様々な農業関係の法律が制定されましたが、とりわけ1961年に制定された農業基本法が農家に重大な打撃を与えたと宇沢は指摘します。政府は、各農家を自立させ、農民の経済的利益を擁護することを目指して農業基本法を制定したのですが、結果はまったくの裏目にでました。そもそも各農家を独立した経営主体(市場経済で企業間競争を繰り広げることのできるような経営主体)に仕立て上げようという考えが間違っていたのです。種播きを飛行機による直播きで行い、害虫駆除には農薬を用い、刈り取りにはトラクターを使う、というアメリカ的農家モデルが想定されたわけですが、これは農家一戸あたりの耕地面積がアメリカの100分の1程度しかない日本には全く不適当なものでした。政府は自立経営農家を育てるための土木工事に補助金を出しましたが、各農家はその4分の1を負担しなければならなかったため、大変な負担を強いられることになったのです。
宇沢は、市場経済に農家を無理やり組み込むためのこうした法整備を鋭い口調で非難します。農業基本法は、農耕を共同で行っていた村落共同体を解体してしまったのです。共同的作業を抜きにしては、農村の生活は立ち行かず、農家の数は急激に減少してしまいました。この問題に対して宇沢は、「村落」に代わる「農社」という組織の結束を呼びかけます。農社とは、「農の営みをたんに農作物の生産に限定しないで、農作物の加工、販売、研究開発活動までひろく含めた、一つの総合的な組織」(P89)です。そして政府には、一戸一戸の農家を支援するのみでなく、農社という組織に焦点を当てた支援策を講ずることを求めました。市場経済に軽々と淘汰されない、したたかな農社を育てることを重要視したのです。
社会的共通資本の破壊②
ル・コルビュジェの「輝ける都市」が引き起こした都市の危機
ル・コルビュジェの「輝ける都市」は、20世紀の都市を象徴する概念ですが、宇沢はその概念に強い嫌悪感を抱きます。ガラス、鉄筋コンクリートを大量に使った、美しい幾何学的なデザインを持つ高層建築群が「輝ける都市」の輪郭ですが、宇沢はそこに「生活を営む人間への配慮」が欠けていると指摘するのです。「輝ける都市」の考えに則ってつくられた町は日本中至るところに存在し、筑波の研究学園都市や、大阪の千里ニュータウンがその代表例です。この非人間的な都市の問題点を鋭く指摘したアメリカの都市学者にジェーン・ジェイコブズがいますが、宇沢はジェイコブズが提唱した都市の四大原則を支持しています。その四大原則を紹介します。
まず第一の原則は、「都市の街路は狭く、折れ曲がっていて、ひとつひとつのブロックが短い」ことです。これは、自動車の通行を前提とした、幅広で幾何学的に張り巡らされたル・コルビュジェの街路とは正反対のものです。第二の原則は、「古い建物が多く残っている」ことです。ジェイコブズは、新しいアイディアは古い建物から生まれると指摘します。第三の原則は、「ひとつの都市が複数の機能を果たす」ことです。ル・コルビュジェは、各都市は商業用、住宅用、工業用などにゾーニングされるべきだと考えましたが、ジェイコブズはやはりその正反対の都市に人間味を見出します。そして第四の原則が、「人口密度は充分に高いほうがよい」ことです。これは、アメリカの過疎都市が念頭に置かれた原則なので、日本の過密都市にはそのままに適用されるものではありません。とにかくジェイコブズは、「輝ける都市」とは正反対の都市に、人間的な魅力を備えた、住みやすくて文化的な都市のあり方を見出したのです。
宇沢がル・コルビュジェの「輝ける都市」を嫌うのは、それが自動車での移動を前提とした都市だからです。宇沢は、『自動車の社会的費用』からも読み取れるように、自動車に激しい憎悪を抱いています。それは、自動車が環境破壊に寄与するだけでなく、人々を死傷させるリスクの極めて高い乗り物だからです。戦後50年間ほど、自動車は毎年約1万人の命を奪ってきました。今でこそ年間死者は3,500人程度に減少しましたが、それでも自動車の危険性は絶大です。
宇沢は、自動車の人身殺傷問題に心を痛め、車道と側道に高低差を設けるような都市を想定し、それを実現するために自動車の費用は1台につき1年あたりで少なくとも200万円は増額されるべきだと考えました(ここには人身殺傷問題だけでなく、公害問題や騒音問題を緩和するための社会的費用も含まれます)。ちなみに、この自動車の社会的費用には別の機関による試算がいくつかあり、野村総研は18万円、運輸省は7万円、自動車工業会は6,622円という、宇沢とはかけ離れた結果を提示しています。宇沢は、こうした社会的費用の過小評価には既得権益の受益者の思惑が反映されているとして厳しく非難しています。
感想
本書を読んでもっとも印象に残るのは、宇沢が抱く、腐敗した官僚専権に対する激烈な怒りです。自然環境などの社会的共通資本は、市場経済的資本主義にその管理を委ねていてはあっけなく退廃してしまうので、行政が適切に介入して市場経済の淘汰圧から守らなければならないのに、戦後の日本では行政はその役割を果たしてこなかったどころか、社会的共通資本の破壊に加担してきました。これが血の通った人間のすることなのかと思えるような悪行を、行政官僚たちは強権を振りかざして実行に移してきたのです。そのことは本書を読んでよくわかりました。
ただ、非は行政官僚にのみあるのではなく、経済成長こそ正義だと考えた世の中の風潮にもあると思います。ほぼすべての日本人が社会的共通資本の破壊に無自覚的に関与してきたことも事実なのです。四大公害などの惨状を目の当たりにしてようやく高度経済成長社会が自然環境への配慮を欠いていたことに気づくのですから、人間なんてのんきなものです。宇沢は本書の最後で、社会的共通資本の適切な管理を実現するための手段のひとつとして炭素税の導入を掲げていますが、それだけで解決できる問題ではありません。斎藤幸平が『人新世の「資本論」』で提唱しているように、グローバル資本主義を根本から問い直すべき分岐点に差し掛かっているのです。
ちなみに、斎藤はその著書の中で、グローバル資本主義がグローバルサウスから搾取していることを憂いていましたが、これは宇沢が資本主義が農村から搾取していることを憂いているのと同じだと思いました(規模が違うだけで)。資本主義からの脱却や、資本主義の大幅な見直しを求める人の共通点は、「世界のどこかに不当に搾取されている人が存在する」「このままの生活を続けていたら将来世代が割を食うことになる」という強い責任感、正義感を持っていることだと最近感じます。こうした感情を抱いている人は少なくないはずです。
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