E. F. シューマッハーが1986年に著した『スモール イズ ビューティフル』(小島慶三・酒井懋訳、講談社学術文庫)を読みました。35年前に書かれた本ですので多少古めかしさは感じましたが、それでも読み応えのある作品でした。まずこの本を読んでわかるのは「生産性向上の追求」や「経済成長の追求」に対する批判的な意見は少なくとも35年前からあったということです。1986年の日本といえばバブル景気に浮かれていたわけですが、この本は当時の日本でも多くの人に読まれたようですから、不自然な好景気が長くは続かないことを予感していた人が当時から少なからず存在したのでしょう。本書では「わたしたちは価値観を改めるべきである」と大々的に謳われていますが、これは今日再び耳にする機会の増えたスローガンのひとつです。
ずいぶん昔から経済成長を見直そうとする動きはあったのにもかかわらず、なんだかんだで経済成長に寄りかかり続け、地球環境を破壊し続け、有限の再生不能資源を消費し続け、富者と貧者の格差を広げ続けて、私たちが数十年を過ごしてきたということに気付かされます。35年前と比較したら多少は環境保全に対する意識が根付いてきたのかもしれませんが、それでも経済成長を至上とする価値観はまったく揺らいでいません。きっと地球が破滅的状況に至らない限り、人々の価値観は揺るがないのだろうと思います。それほど正常性バイアスというのは強力なものなのです。「人類総倒れ」の未来もそう遠くはないかもしれません。
さて、本書で取り上げられていた中で、個人的におもしろいなと思ったいくつかの論件について、以下で簡単に触れておこうと思います。
「大量生産」ではなく「大衆による生産」
シューマッハーは、現代社会に見られる技術や科学の加速的な進歩に疑問を投げかけます。彼は、大量生産を助長するための技術や科学の進歩を批判的に捉え、「大衆による生産」を助ける技術(本書では「中間技術」だとか「人間の顔をもった技術」などと呼ばれている)こそ私たちに必要なものだと主張しています。大量生産のための技術が批判されているのは、それが少数の人間の手に権力を集中させる上、大衆から仕事を奪ってしまうからです。シューマッハーは、技術進歩に伴って、仕事から人間らしさが奪われ、仕事が単なる機械的な作業に変わってしまったことを憂いているのです。
大量生産の体制によって立つ技術は、非常に資本集約的であり、大量のエネルギーを食い、しかも労働節約型である。(中略)大量生産の技術は、本質的に暴力的で、生態系を破壊し、再生不能資源を浪費し、人間性を蝕む。(P204)
シューマッハーは「大量生産」に対比して「大衆による生産」という考え方を導入し、大衆による生産を助ける技術に希望を見出します。
世界中の乏しい人たちを救うのは、大量生産ではなく、大衆による生産である。(中略)大衆による生産においては、だれもがもっている尊い資源、すなわちよく働く頭と器用な手が活用され、これを第一級の道具が助ける。(中略)大衆による生産の技術は、現代の知識、経験の最良のものを活用し、分散化を促進し、エコロジーの法則にそむかず、希少な資源を乱費せず、人間を機械に奉仕させるのではなく、人間に役立つように作られている。(P204)
「大衆による生産」を促進する技術には3つの条件が挙げられており、まずひとつ目が「安くてほとんど誰でも手に入れられること」です。これは、富者と貧者が別け隔てなく使え、すべての人が仕事にあぶれることのない状態をつくるために必要な条件です。2つ目の条件は「小さな規模で応用できること」で、これは言い換えれば「地域社会での利用に適している」ということです。地域社会は、土地や天然資源を自分たちに与えられた大切な共有財だと考えているため、大企業のように地球全体が自分たちの搾取対象だと考えるようなことはなく、環境に配慮した生産活動を行う傾向にあります。こうした環境配慮型の小規模な生産活動を促進するために、「小さな規模で応用できる技術」という条件が設定されているのです。そして3つ目の条件が「人間の創造力を発揮させること」です。3つ目の条件はシューマッハーが最も重視しているもので、これが満たされることで、仕事が人間を人間たらしめるとされています。仕事は、人間が創造性をぶつけ、自己実現を行い、社会的な結びつきを強める機会となることが望ましいのであり、技術もそうした仕事像から逸脱するものであってはならないのです。
仕事を現在の姿、つまりオートメーションでできるだけ早く廃止してしまうべき雑用とは見ずに、「人の心身の善であると神意により布告されたもの」と理解するような正しい労働観が必要である。家族の次に社会の真の基礎を成すのは、仕事とそれを通じた人間関係である。その基礎が健全でなくて、どうして社会は健全でありえよう。そして、社会が病んでいるとすれば、平和が脅かされるのは理の当然である。(P47)
先進国の善意の開発援助が貧しい国をさらなる窮地に追い込む
先進国は、技術的な援助によって貧しい国を救おうとしますが、こうした援助はかえって貧しさを助長しかねません。シューマッハーは、先進国の技術的援助が上に紹介した「技術の3つの条件」を満たしていないことを問題視します。例として、世界最高の技術水準を誇る機械を貧しい国の工業に導入する場合を考えてみます。はじめのうちは貧しい国は生産性の向上を喜ぶかもしれませんが、オートメーション化によってこれまでの従業員が大量に解雇されることにもなりかねません。また、機械や機械を扱える技術監督者、さらには原材料までをも外国から受け入れなければならなくなり、これは貧しい国を先進国への依存状態に置いてしまいます。つまり、貧しい国は自立の芽を摘まれてしまうのです。先進国側は、貧しい国の国民総生産が増大すれば、それを技術的援助が成功した証拠として満足するかもしれませんが、その実、貧しい国からは人間を人間たらしめる仕事が奪われ、人々はさらなる窮地に追い込まれることになるのです。
国民総生産や投資や貯蓄といった大きな抽象概念を使い続けるならば、問題の核心を取り逃がすことになる。(中略)援助が成功したといえるのは、その結果として被援助国で大衆の労働力が活用され、労働力の「節約」なしに生産性が上がった場合だけである。成功の基準としてつねに用いられる国民総生産の成長は、まったくあやしい概念であり、現実には不可避的に新植民地主義としか呼べない現象を生むに違いない。(P253)
こうした最先端の機械を提供するような援助に対し、知識の援助こそが必要だとシューマッハーは説きます。貧しい国はモノを与えられると努力なしにそれを手に入れることができますが、知識を与えられる場合にはそれを身につけるための努力が必要になります。ですがこの努力こそが貧しい国を救うものであり、努力によって知識を身につければ、自立、独立に向けて前進することができるのです。モノではなく知識を授けるべきであることは、以下の魚の例でわかりやすく説明されています。
人に魚を与えてもその場限りの助けになるだけだが、釣りを教えれば一生の助けになる。さらに一歩進めて、釣り道具を与えるとなれば、かなりカネがかかり、その結果も必ずしもよいとは限らない。かりにそれが役に立ったとしても、もらい手がこれで食べていくには、絶えず道具の補給を受けて相手に依存することになる。ところが、道具の作り方を教えてやれば、もらい手はこれで自活できる上、自信も湧き、独立心も出てくる。(P258)
人間らしさを育む農業
生産性の向上を目指して農業を設計することは、広い視野から眺めたときに人を不幸にするとシューマッハーは説きます。彼によれば、農業には大きく3つの目的があり、そのひとつ目が、「人間と生きた自然界との結びつきを保つこと」です(P147)。現代の農業は、経済至上主義から必然的に生まれてくる大規模な機械化と化学肥料や農薬の大量使用などにより、自然界との結びつきを破壊する方向に突き進んでいますが、これでは人々が幸せになれないどころか、社会が長続きしません。農業の2つ目の目的は、「人間を取り巻く生存環境に人間味を与え、これを気高いものにすること」です。農業を経済計算の文脈で工業と同じように捉え、農業の工業化、非人間化、集中化、専門化を推進し、農民の数を減らして農民一人あたりの所得を増やそうとする潮流がありますが、シューマッハーはその潮流を非難し、農業を通じて人間が人間らしさを育むことが重要であると主張します。この2つの目的が達成された上で、3つ目の「まっとうな生活を営むのに必要な食糧や原料を造り出すこと」が目指されることで、私たちの社会は長期的に見て存続可能なものとなるのです。
シューマッハーは、いわゆる経済計算の枠組みには収まらない、「超経済的価値の信仰」を重視します。農業生産にあたり、収入をあげコストを下げるだけしか考えなければ、離農を促進し、地方農民を都市へと移住させるような政策がとられることになりかねません。しかしそうした政策を推進することで、健康、美、永続性といった本質的な価値(超経済的価値)を無視することになります。むしろ地方文化の再建を目指し、多くの人がやりがいのある職業として農業に従事できるような基盤を整備することこそ、政府が手掛けるべきことなのです。
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